<< Back to top

Ⅳ. 生涯の政敵 勝海舟

"小栗が浮けば勝が沈み、勝が浮かべば小栗が沈む"
小栗を語る上で外すことの出来ない存在が勝海舟である。共に開明的な幕臣であったが、政策面では悉く対立した。
ここでは、いくつの具体例を時代順に紹介する。

遣米使節

先述の通り小栗は日米修好通商条約締結の正使としてポーハタン号に乗船、役目を果たした後に世界を一周して帰国したのだが、勝はこの時随行船咸臨丸に乗船して一足早くサンフランシスコに到着している。あくまでポーハタン号を補佐する役割であったためその後の行程まで同行することは無かったが、サンフランシスコにしばらく滞在しており、彼は小栗と同様に渡米経験のある数少ない幕閣の一人となったのである。これをきっかけとして両者は共に開国の意思を更に強めることとなるが、同時に近い思想を持ちつつもしばしば意見の対立するライバルとしてみなされるようになる。

軍制改革案

小栗の提唱した横須賀造船所建設案は、幕閣からの大きな反発に合い結局着手にこぎつけるまで4年もの歳月を要したのだが、この時特に反対したのが勝海舟である。彼は「日本が小栗の言うようにやったら500年はかかる」といういわゆる海軍500年説を唱えた。つまり現状一から自前で海軍を作るには時間がかかりすぎるため、幕府は人材育成に注力し、武器や軍艦などは海外から購入すれば良いと主張したのである。結局こちらの主張が先に受け入れられ、建設されたのが坂本龍馬も通った神戸海軍操練所である。ちなみにこの操練所は、池田屋事件において殺害された過激尊王攘夷派の中に生徒が複数人存在していたことを問題視されわずか1年程で閉鎖に追い込まれてしまうのだが、この事を指摘した幕閣こそ他でも無い小栗忠順なのである。

対馬占領事件への対処

文久元(1861)年、ロシア軍艦ポサドニック号による対馬占領事件が発生した。艦長のピリレフは島内に兵舎を建設し、対馬藩主との面会を一方的に要求、一触即発の雰囲気が漂っていた。当時外国奉行を務めていた小栗は対応のためすぐに対馬へと向かったが、結局ロシア側との交渉は頓挫してしまう。小栗は苦心して、・対馬藩の幕府による直轄化 ・ロシア領事を通じて本国と交渉すると同時に国際世論へ訴える ・対馬を開港しどの国でも利用できる状態にすることで諸外国同士を牽制させ、一国による占領を防ぐ ・海軍力の早急な強化、といった具体的な対応策を提示した。しかしこれに対して勝は、当時同様に対馬の租借権を狙っていたイギリスに事情を説明し、イギリス軍艦を対馬へ急派させる案を老中安藤信正に提案した。最終的には勝の案が採用され、自体はなんとか収集したが、小栗はこの、前門の虎を追い払うのに後門の狼を使うようなやり方に最後まで納得が行かず、結局外国奉行を自らやめてしまう。この一件を通じて、外交における経済、軍事力の重要性を痛感したことが、容易に想像できる。

戊辰戦争

勝と小栗の因縁は徳川幕府崩壊の折まで続いている。鳥羽・伏見の戦いの戦闘中に突然江戸へと戻った将軍慶喜は、勝・小栗の両者を呼び今後の対応について意見を求めている。勝が慶喜に恭順を強く勧め最終的に江戸城無血開城に至ることは誰もが知る歴史であるが、この時小栗は主戦論の立場を取っていた。陸軍奉行として、軍制の近代化に努めてきた小栗としては大政奉還から恭順にいたる慶喜の決断に納得が行くはずはない。強く慶喜に抗戦を進言したが、結局採用されず小栗は陸軍奉行の任を解かれることとなる。辞任や罷免を幾度なく経験してきた小栗であるが、この一件を経てついに家族共々領地上州権田村へと退くことになる。

若干粗い分析ではあるが、小栗が軍艦の建造や鉄道敷設といったハード面を重視しているのに対し、勝は人材育成のようなソフト面を重視していたことが伺える。また、政治手腕に関しては小栗が正攻法的な考え方で最善の政策を導き出すのに対し、勝はやや変則的に幕閣らしからぬ方法で政治を行う人物であるという印象を受ける。いずれにせよ、根底にある開明的な思想が共通していながらも、性格や信条の違いからかこれほどまでに対立してしまう点はとても面白い。