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Ⅱ. 米国への渡航

"観察官(センサー)オグロ・ブンゴ・ノカミは、小柄だが、生き生きした、表情豊かな紳士である。
威厳と、知性と、信念と、そして情愛の深さとが、不思議にまざりあっているのである (1860 The New York Herald)"
小栗は、正使として渡米した史上初の日本人の一人であった。
そこで得た様々な経験は、彼のその後の人生に多大な影響を与えることになる。

概要

ポーハタン号

万延元年(1860年)日米修好通商条約の批准書交換を目的として、正使新見正興、副使村垣範正、監察小栗忠順を代表とする万延元年遣米使節がポーハタン号で米国に派遣された。その護衛の名目で木村喜毅を副使として咸臨丸も派遣され、勝海舟が艦長格として乗船、木村の従者として福澤諭吉も渡米している。咸臨丸はサンフランシスコまでの渡航であったが、使節団はハワイ~サンフランシスコ~パナマ、汽車で太西洋側へ出てワシントン上陸、フィラデルフィア~ニューヨーク~アフリカ~インド洋~香港~品川と世界一周して帰着。全体では約九ヶ月の長旅であった。この渡航を通じて小栗らは米国の先進的な技術や社会制度に圧倒され、開国への思いを一層強くが、国内ではこの期間中に桜田門外の変が勃発し、以降攘夷運動が活発化することとなる。米国においても初めて見る異国の文化に国民は熱狂し、新聞は連日遣米使節に関する記事を掲載、突如として侍ブームが興った。しかし米国も同様このすぐ後に南北戦争が勃発し、外交に注力する余裕が無くなる。結局、両国の間に再び正式な外交関係が結ばれるのは明治以降となる。

ワシントン海軍造船所の見学

ワシントン海軍造船所の見学

万延元年(1860)4月5日、一行はワシントン海軍造船所を見学する。造船所と言えど、ここはたんなる「船を造る場」では無く、製鉄を基盤としてあらゆる部品・工具を作るたくさんの工場が並び、その向うで「船も」造られ、修理される総合的な工場であった。高度に産業化された造船所に使節らは圧倒され、この時小栗も記念にねじを1本日本へ持ち帰っている。この経験は、後の横須賀ドック構想の原点とも言えよう。また、パナマから東海岸側への移動には専ら汽車が用いられていたが、これも彼らにとっては大きな驚きであった。汽車自体もさることながら、車窓から見える橋やホテルの柵が鉄で出来ていることに小栗は驚き、日本を木の国からアメリカのような鉄の国へ変えなければならないという信念を道中で強く抱いたという。

ホワイトハウスにてブキャナン大統領へ国書を渡す

ホワイトハウス

同年6月2日、一行はホワイトハウスにて当時の大統領ブキャナンに国書を渡している。現地の新聞はホワイトハウスへ向かう行列の奇特な姿から国書を渡す際の形式ばった動き、贈答品に至るまでこの時の様子を詳細に記している。一方使節側も米国流の様々な歓待儀礼に戸惑ったらしく、従者の記録によれば、使節は平静を装っていたが明らかに緊張していたという。また、真偽は定かではないが、パンに塗るバターを髪に塗ろうとしたというエピソードも残っている。また、6月5日に滞在のホテルにて当時最新の技術であったランターン・スライド(幻灯)の上映会が催されたが、その際大統領がお忍びで参加し、周囲の人と談笑しながら観覧、会が終わると従者も無くその場を後にするその身軽な姿に使節たちは驚嘆したという。

フィラデルフィアでの為替レート交渉

フィラデルフィア造幣局

使節の目的は日米修好通商条約批准書の交換であったが、小栗は同年6月13日、非公式ではあるもののフィラデルフィアの造幣局を訪問し、日米金貨の分析実験を行っている。これは日米和親条約の際に結ばれた金貨・銀貨の「同種同量交換」に対する異議申し立てのためである。同種同量の交換は一見すると平等であるように思えるが、実は同じ通貨でも日本のものの方が含有されている金銀の比率が高く品質が良かったために通貨の流出を引き起こしていたのである。小栗は持参した象牙の秤で通貨の質を計算し、ついに為替レートの不平等を局員に認めさせることが叶った。この時使節にはレート交渉の正式な権限は与えられておらず、残念ながら実際に日米間の為替レート改訂までには至らなかったが、為替という複雑な問題に使節が熱心に取り組んだこと、長時間の実験にも根気よく立ち会ったこと等が、現地の新聞に紹介され、特に小栗の評価を高めることに繋がった。

その他、行路で停泊したハワイにおいてカメハメハ大王から歓待を受けた、ニューヨークブロードウェイで大観衆の下行進した、川を横断するために汽車ごと蒸気船へ乗った 等々 エピソードにはこと欠かない。