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Ⅲ. 幻の近代化政策

"小栗上野介は、謀殺される運命にあった。明治政府の近代化政策は、
そっくり小栗が行おうとしていたことを模倣したものだから。 (大隈重信)"

上記の言葉は、自由民権運動の際に大隈重信がしばしば用いたものであるとされている。
帰国後の小栗は日本の近代化に向けて八面六臂の活躍を果たすが、ここではその内から主要な業績を紹介する。

洋式軍制改革

ブリュネ

帰国後の小栗はすぐに米国で見た制度を内政に生かそうと試みる。軍事面においては元治(1864)年、陸軍奉行に任ぜられると湯島大小砲鋳立場を幕府直轄とし、2年前に建造された関口製造所に統合、小銃や大砲、弾薬等の兵器・装備品の国産化を推進した。この時施設の責任者には、函館五稜郭の設計も手掛けた当時気鋭の科学者武田斐三郎を任命している。勘定奉行と陸軍奉行を兼任していた慶応三(1867)年には、第二次幕長戦争の不振を受けて陸軍の洋式近代化にも努めている。フランス師軍事顧問団ジュール・ブリュネの指導の下、三兵(歩兵・騎兵・砲兵)伝習(調練)を行ない、また「賦兵の制」を開始して、旗本たちが洋式軍事訓練を行なうことを勧めた。一連の政策はハード、ソフトの両面から幕府軍の近代化に大きく貢献したが、一方で資金、人材共にフランスからの援助が大きく、幕府は最早フランスの傀儡である、という批判を生む原因にもなった。

築地ホテルの建設

築地ホテル館

築地ホテルは、今後増加するであろう外国人への対応のために、慶応3(1868)年築地の外国人居留地付近に建設された。渡米の際にワシントンで宿泊したウィラードホテルを参考に、当時最新の設備を導入。102室、水洗トイレつき、ビリヤード室、シャワー室、バーも備え、「眺望が良い」と外国人も絶賛するホテルであった。連日押すな押すなの人気で見物人が押し寄せ、錦絵が100種以上も作られ、東京(完成時すでに幕府は瓦解し、地名も東京に改められていた。)の名所となったが、明治五年まで営業したのち、「銀座の大火」で焼失。また、当時財政が逼迫していたことから、幕府は土地のみを無償提供し、出資金も建設業者も民間から集め、利益も出資金に応じて分配するという株式会社に近い仕組みを採用している。これに応じたのは清水組(現在の清水建設)の二代清水喜助で、工事だけでなく後に経営も引き受けることとなった。

兵庫商社の設立

慶応3(1867)年、小栗上野介は日本最初の株式会社「兵庫商社」の設立建議書を提出した。これは修好条約締結後開港された神戸において、日本企業側の交渉力や競争力を高めることが目的であり、万延元年(1860)に遣米使節として渡米の折パナマ鉄道で説明を受けた鉄道会社の仕組みが活かされている。出資者を二十人の大坂商人とし、100万両の資金を出資させる。ただ出資させるだけでは商人は動かないから代わりに同額の金札発行を許可し、利益が出るようにする。商社の役員は頭取の山中善右衛門(鴻池屋)ら3名、肝煎りに6名の商人、残りの11名は世話役とする構成。商社の事務所は商社会所と呼ばれて大坂中之島に置かれた。

「このたび兵庫(神戸)を開港するについて、これまで長崎・横浜を開いてやってきたが、西洋各国が港を開いて国の利益を得ているのに反し、日本は開港するたびに国の損になっている。これは商人組合のやり方をとらないで、薄元手(小資本)の商人一人一人の損得で貿易を行ない・・・・・薄元手の商人が互いに競争で外国商人と取引するから元手厚(大資本)の外国人に利権が奪われてしまう。」「これは商人一人の損失ばかりか、結局国の損失になり、ついに全国の利権を失し、外国商人のために蔑視され・・・」てしまう。だから「外国人と取引するには、外国貿易の商社(西洋名コンパニー)のやり方に基づかなくては、とても国の利益にはならない」(『幕末外交談』田辺太一/『読史余録』塚越芳太郎)

そしてコンパニーの利潤をもってガス灯や書信館(ポストオフィシー・郵便電信制度)、鉄道の設置をすれば、国にとっての膨大な利益となる、と提議する画期的な構想であった。(渋沢栄一 『徳川慶喜公伝』)

このように、小栗は兵庫商社の利益をガス灯や鉄道、郵便制度を整備するための元手にする構想を立てていたのである。一般的に株式会社と言えば坂本龍馬の亀山社中の知名度が高いが、兵庫商社の方が規模が大きく設立時期も早い(日本初の株式会社である)。また"company" を訳し「商社」という言葉を生んだのも小栗であると言われている。

横須賀造船所の建設

小栗忠順最大の業績とも言えるものが、横須賀造船所の建設である。造船のみならず、製鉄や金属加工所まで含まれていたその構想の先には、恐らく米国で見学したワシントン海軍造船所が有ったのだろう。帰国後の提案から承認に至るまでおよそ4年もの歳月を要したが、幕府はついに元治元(1864)年にこの建設を承認、フランス人造船技官のヴェルニーと共に計画にに着手した。丁寧な実地検分の結果、湾の形に変化があって要害の地であり、風波の心配もなく湾内も広くて深いなどの理由から、横須賀を製鉄所の建設地と確定、製鉄所の敷地は約24万6千平方メートルで、当時世界的に見ても最大規模を誇る壮大なものであった。建設は順調であったが、完成は幕府瓦解後の1971年である。そのため施設の一切は明治政府に引き継がれたが、横須賀海軍工廠と名を変えその後長きに渡り日本の産業化に貢献、日本近代史においても重要な施設である。また、横須賀造船所では就業時間の制定、賃金や解雇に関する規定の制定、残業手当の導入といった近代的な雇用ルールがいち早く採用されており、厚生面に関しても非常に先進的であった。現在ではこの場所に横須賀米軍基地が置かれており、近くに小栗とヴェルニーの功績を讃えた記念公園が置かれている。

横須賀造船所