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Ⅶ. 没後の評価

"その趣を喩えていえば、父母の大病に回復の望なしとは知りながらも、
実際の臨終に至るまで医薬の手当を怠おこたらざるがごとし。(福沢諭吉『痩せ我慢の説』)"
勝と比較しても明らかであるが、現在に至るまで小栗の功績は決して十分に評価されているとは言えない。
しかし、それでも再評価に繋がる動きはいくつか存在していた。ここでは具体例として、福沢諭吉と東郷平八郎による興味深い事例を紹介する。

痩我慢の説

痩我慢の説、とは福沢諭吉が自身が発行した新聞『時事新報』にて1901年に掲載した著書の1つで、その内容は勝海舟や榎本武揚と言った幕臣でありながらも明治政府に出仕している人間に対する批判であった。冒頭で「立国は私なり、公にあらざるなり」と述べて、国家は必要悪であり忠君愛国の情は私情に過ぎないと主張する。しかしながら、現在の時点では国家は必要であって、たとえ小国であっても忠君愛国の情を持つことは「瘠我慢」として認める。そして、勝は講和論者であって、江戸城を開城し内乱を避けた功績は認めるにしても、幕府に対する「瘠我慢」の情が無かったと非難する。また、榎本に対しても降参した後に東京に護送されて、新政府に協力したことは感服することではあるものの、やはり「瘠我慢」の情がなかったと非難している。ここで興味深い点とは、原文中に小栗が残した言葉と非常に近い、"その趣を喩えていえば、父母の大病に回復の望なしとは知りながらも、実際の臨終に至るまで医薬の手当を怠おこたらざるがごとし。"という言葉が用いられている点だ。彼に対する直接的な言及は無いものの、これは明らかに最期まで幕府に尽くした小栗を引き合いに出すことで、勝や榎本の現在の立ち振る舞いを批判しているのだと私は考えている。(ただしこの『痩我慢の説』は福沢の勝に対する私怨の色が強い。一般的にはあまり知られていないが、勝と福沢の仲はあまり良くない。咸臨丸乗船時、若き日の福沢は勝の身勝手で横柄な態度に辟易しており、同時に勝も当時の福沢を生意気な若造としてそれほど好感を持っていなかった。この因縁が明治期にまで続き、著されたものが痩我慢の説であると言える。恐らく当時の福沢は、船中部屋に篭りしばしば愚痴を漏らしていた勝よりも小栗の立ち振る舞いをより尊敬していたのだろう。また、適塾で福沢と共に学問に励んだ大鳥圭介も同様に幕臣でありながら明治政府に出仕したが、彼への批判は書かれていない。)

東郷平八郎の表敬

東郷平八郎は日露戦争終結後、東京の自宅に小栗の遺族を招いている。招かれると、東郷は遺族らを上座に据え「あの日本海海戦において、旗艦三笠や主な戦艦、巡洋艦はイギリスなどの外国製であったが、海戦の夜に最後のとどめを刺した駆遂鑑・水雷艇のほとんどはあなたのお父上が造ってくれた横須賀造船所で造られたものである。」と礼を言い、「仁義禮智信」と書いた扁額を、縦横二幅贈って功績を称えたという。日露戦争後の当時国中が英雄として祭り上げた東郷による表敬の影響は非常に大きく、それまでほとんど評価されることの無かった小栗の名誉を回復する転機となった。この扁額は後に遺族らが東善寺に寄贈しており、現在でも境内に展示されている。

東郷の書