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Ⅴ. 悲運の最期

"偉人小栗上野介 罪無くして此処に斬らる (倉渕村水沼河原 顕彰慰霊碑)"
小栗は業績に加え、その最期も壮絶なものであった。
ここでは、鳥羽伏見の戦いから斬首に至るまでの彼の行動を追う。

戊辰戦争

先述の通り、小栗は勝の恭順論に強く反対し、徹底抗戦を主張していた。そもそも大政奉還自体納得しておらず、慶喜の決断を知った際には「納得がいかん!」と激昂したとも伝えられている。戊辰戦争の際にも、最後は無礼を承知で慶喜の裾をつかみ戦うことを懇願したと言う。また、彼はこの時具体案、小田原で薩長を迎え撃ち、緒戦わざと負け退き敵を箱根山中に誘い込み、同時に榎本率いる幕府艦隊を駿河湾に突入させて後続部隊を艦砲射撃で足止めし、一挙にせん滅勝させるという、いわゆる小田原決戦案も提示していた。西軍の参謀と務めた大村益次郎は、もしこの案が採用されたならば我々は敗北していただろうと後に回想している。

彰義隊の戦い

陸軍奉行を罷免されると、小栗を才能を惜しむ多くの若手幕臣から様々な提案を受けることになる。米国亡命や会津藩との合流がそれにあたるが、特に重要なのが彰義隊の総督就任依頼である。抗戦派の幕臣や一橋家家臣の渋沢成一郎、天野八郎らによって結成された彰義隊は後に幕府の威光を維持すべく上野戦争を起こし敗北しているが、抗戦派の筆頭とみなされていた小栗こそその長にふさわしいとして周囲から強い推薦を受けたのである。しかし小栗は、将軍の決断に背く行動に最早大義は無いと反論しこれをふくめた一切の提案を拒否、隠棲を決意する。

権田村での隠棲

墓石1墓石2

権田村での生活はわずか六十五日に過ぎないが、この間にも小栗は水路や馬術場の整備を行い、また東善寺に仮居を構えながら私塾を開いていたという。村人との関係も非常に良好であった。しかし小栗の首を取り名を上げようとした暴徒たちを撃退したことから新政府軍に農兵を編成し再起を図っているという嫌疑をかけられ、ついに東山道総督から周囲の藩へ追悼令が下る。捕縛後は取り調べも無く従者共々斬首されたが、幕臣の中でこのように戦わずして処刑された人間は小栗ただ一人である。多くが見守る中従者は必死で小栗の無罪を訴え村人達も役人と口論を始めたが、彼は最期に「お静かに」と呟き、もうこうなった以上どうしようも無いのだから、後は運命に身を任せようと周囲に自制を促したと言う。昭和4年、上野介の遺徳を忍び非業の最期を悼む村民は寄金を集め、この処刑地に顕彰慰霊碑を建てる。右の写真がそれであるが、碑文には『偉人小栗上野介 罪なくして此処に斬らる』と刻まれていた。