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Ⅰ. 概略・年表

"維新を躍進させたのは風雲児坂本龍馬、国家改造の設計者小栗上野介、国家という建物解体の設計者勝海舟、新国家の設計助言者福沢諭吉、無私の心をもち歩いた巨魁西郷隆盛の5人であり、明治の偉大なファーザーである。 (司馬遼太郎『明治という国家』)"
あの司馬遼太郎をしてここまでの評価を受ける小栗であるが、他に挙げられている人物と比較しても知名度はそれほど高く無い。彼は一体どのような人物で、どのような生涯を送ったのだろうか?

概略

小栗忠順

小栗忠順 (おぐり ただまさ) 江戸時代末期の幕臣、勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行、陸軍奉行、海軍奉行などを歴任。 文政10年、旗本小栗忠高の子として生まれる。幼名は剛太郎。文久3年上野介に遷任され、以後小栗上野介と称される。若くして文武に秀で、自身の意志を誰にはばかることなく主張する性格から「天狗」と揶揄されていた。嘉永6年、ペリーが浦賀に来航。この頃から外国との積極的通商を主張し、造船所を作るという発想を持ったと言われている。安政7年、遣米使節目付としてポーハタン号に乗船し渡米。フィラデルフィア造幣局にて通貨の交換比率の見直しを交渉。また、ワシントン海軍工廠を見学するなどして、欧米諸国との工業技術の差に驚愕し、記念にネジを持ち帰った。その後、ナイアガラ号に乗り換え、大西洋を越えて品川に帰着する。帰国後は遣米使節の功により、外国奉行に就任。文久元年、ロシア軍艦対馬占領事件が発生。幕府の対処に限界を感じ、外国奉行を辞任する。文久2年、勘定奉行に就任。駐日フランス公使レオン・ロッシュとの繋がりを深めつつ、幕府の財政立て直しと近代化政策を指揮する。軍事面ではフランス式兵法に基づいた陸軍の近代化、小銃・大砲・弾薬等の兵器・装備品の国産化の推進、また、湯島大小砲鋳立場を幕府直轄とし関口製造所に統合し、武田斐三郎などの気鋭の技術者を責任者として登用した。そして経済面では株式会社「兵庫商社」設立案の提出、築地ホテル館の建設等、慶応元年には横須賀製鉄所の建設を開始する。戊辰戦争では一貫して主戦論を説くも、徳川慶喜の恭順姿勢と相いれず任を解かれ、慶応4年、幕府から帰農許可を得て領地である権田村に移住。東善寺を仮住まいとして観音山に住宅建設を進める。当時の村人の記録によると、水路を整備したり塾を開くなど静かな生活を送っており、農兵の訓練をしていた様子は見られなかったが、同年閏4月4日、東山道軍に捕縛され、取り調べもされぬまま2日後に水沼河原で家臣三名とともに斬首された。享年42。(参考: 東善寺『幕末開明の人 小栗上野介』)

年表

年号 年齢 出来事
文政10 (1827)年 6月23日 江戸駿河台に生まれる。幼名 剛太郎。
天保 5 (1834)年 8歳 この頃から漢学・剣術・柔術・砲術を学ぶ。
天保14 (1843)年 17歳 はじめて登城、将軍に初見得
弘化 4 (1847)年 21歳 部屋住から城中出仕となる。
安政 2 (1855)年 29歳 父忠高病死。跡目相続し又一と改名する。
安政 4 (1857)年 31歳 12月16日 布衣従六位相当に叙される
安政 6 (1859)年 33歳 11月21日 従五位下諸大夫に任命される。豊後守に任ぜられる。
12月1日 アメリカヘ条約批准の目付として命ぜられる。
安政 7 (1860)年 34歳 1月18日 条約文書交換のため米艦ポーハタン号で品川を出帆。
万延元 (1860)年 3月28日 ブキャナン大統領に謁見。
4月 3日 外国事務宰相レウス・カスと会見、条約の批准を交換する。
9月28日 横浜帰着。
11月 8日 外国奉行に任ぜられる。
文久元 (1861)年 35歳 4月 6日 ロシア軍艦対馬を占拠したため対馬へ派遣される。
5月20日 ロシア艦長ビリレフと折衝したが成功せず談判中止。
文久 2 (1862)年 36歳 6月05日 勘定奉行(勝手方)に任ぜられ、上野介と改める。
閑8月25日 江戸南町奉行に任ぜられる。
12月 1日 初代歩兵奉行に任ぜられる。
文久 3 (1863)年 37歳 7月22日 陸軍奉行に任ぜられる。
元治元 (1864)年 38歳 11月10日 横須賀製鉄所(造船所)建設正式決定。
12月18日 軍艦奉行に任ぜられる。
慶応元 (1865)年 39歳 8月 1日 横浜にフランス語学校を開校する。
9月27日 横須賀製鉄所の鍬人穴を行う。
慶応 2 (1866)年 40歳 8月 海軍奉行に任ぜられる。
慶応 3 (1867)年 41歳 12月 勘定奉行兼陸軍奉行に任ぜられる。
慶応 4 (1868)年 42歳 1月15日 主戦論を主張し、破れて罷免される。
3月 1日 権田村に土着。東善寺を仮住まいとする。
3月 4日 暴徒数千人来襲し、これを撃退する
4月22日 東山道総督、高崎藩・安中藩・吉井藩に小栗追補の命令を出す。
閑4月 5日 三藩の兵、東善寺裏山より侵入、上野介らを縛して三ノ倉の陣屋に引き上げる。
閑4月 6日 水沼川原で家臣とともに斬殺される。
閑4月 7日 高崎藩牢屋敷処刑場で養子又一も家臣等とともに斬られる。